ケンヤの詳細
私、ケンヤが半生を振り返ります(*^_^*)
ご興味のある方は続きをご覧ください。
ちょっと長いです^^;
■生い立ち
【生まれ】
1970年代初頭、福岡県福岡市に生まれました(*^_^*)
真面目な会社員の父と公務員の母の元で育ちます。
父は毎日帰りが遅く「仕事が人生」という感じだったので、
あまり話をした記憶がありません。
母は若い頃から大変な苦労をした人で、口癖は、
「保証人になってはいけない。」
「借金はしてはいけない。」
「女の子には優しくしないといけない(謎)」
でした。
両親が一生懸命に働いてくれたので、
不自由のない生活を送ることができましたが、
その教えは、まさに、典型的な「貧乏父さん」の家庭ということになります。
一方で、「あれしなさい」「勉強しなさい」みたいなことは、
ほとんど言われた記憶はなく、
やりたいことをやらせてくれる家庭でした。
まぁ放任主義と言ってもいいのかもしれませんが、
今思い返すと、二人とも仕事が大変でそれどころではなかったのかもしれません。
ちなみに、0歳から保育園通いだったみたいです♪
【小学生】
両親共働きのため、いわゆる鍵っ子でした。
低学年の頃はけっこう寂しい思いをしていたような気がします(*^_^*)
4つ上の姉はぜんぜん遊んでくれず、よく泣かされていました(T T)ノ
あと、この頃からよく、
母親から「女の子には優しくしないとダメよ」と言われていました。
今思えば、何故そこに拘っていたのか不思議ですが、
自分が男性に酷い目に合わされた裏返しかもと思います^^;
ソフトボールとサッカーのスクールに通っていました。
スポーツは得意だったし、勉強も出来たし、
何よりも(母親に刷り込まれて)優しかったので、
クラスの女子にはけっこうモテていました(*^_^*)
あ、大事なことがありました!
この頃に私の人生の方向性を大きく決定付けることになる出来事があります。
『ガンダムとの出会い』
です。
とにかくガンダムにはまりました!
あまりに夢中になり過ぎて、周りからは、
「ガンダム博士」とか「ガンダム君」なんて呼ばれることも。
ガンプラ(プラモデル)に夢中になり、その流れもあって、
高学年になるとラジコンに夢中になって、レースに参加するようになりました。
思い返すと、いろいろと出てくるものですね!
【中学生】
さわやかにテニス部に入部するも、
1年生の頃にちょっとした問題を起こして退部に^^;
ラジコンは続けておりレースに出ては大人と戦っていました。
ガンプラの腕前はどんどんあがり、コンテストで入賞するように。
手が器用だったんですね♪
スポーツは体格の大きい人や、運動部でガンガン鍛えている人が突出してくる時期でもあり、
目立たなくなりましたが、一方で勉強の成績ではどんどん目立つようになっていくことに。
あと(刷り込みで)女子には優しかったので、やっぱりモテました。
(母親のお陰だと思います(笑))
そうだ、この頃は、おニャン子にはまるという意外な側面も?(*^_^*)
【高校生】
県内屈指の県立進学校に入学。
絶頂期というか、浮かれていました(笑)
素晴らしい友人たちと出会い、とにかく遊びました!
機械好きだったこともあり、1年生のときに免許とってバイクに乗り始めました。
とにかくバイクにはまりました。
それからバンドブーム到来!ということもあったせいか、
バンドを始めました。
学園祭でライブしたり、地元のライブハウスに出たことも。
楽器屋の店長にそそのかされて、
ヤマハ主催のプロ発掘オーディションみたいなやつに出たことも^^;
ヘタくそだったですけどね。
恐いもの知らずのイケイケだったんだと思います♪
THE BLUE HEATSとかLAUGHIN’ NOSEとか好きでしたよ。
ヘヴィメタルでは、ANTHEMとかLOUDNESSとかコピーしてました。
それから何といっても尾崎豊!
バイクは盗みませんでしたが(^^;
アルバイトもしてました。
バイクとか楽器とか、欲しいものがたくさんあったので、
ファミレスの皿洗いとかスーパーのレジ打ちとかやってましたね。
今みたいに「ピッピッ」じゃなくて、お値段を見て、
テンキーで全部打ち込むという時代です(@ @)ノ
部活を3つ掛け持ち(1つ途中でフェードアウト)していて、
それが終わってからバイトです!
我ながらよくやっていたと思います。
バイクもバイトも禁止でしたが、両親もよく黙って許してくれたものです・・・
で、当然の結果というか、お勉強のほうは完全に落ちこぼれました(T T)ノ
(刷り込みで)優しかったので、
卒業式のときは後輩の女の子にたくさんのお花を頂きました(*^_^*)
【浪人】
実家のすぐ近くにあった九州大学を記念受験し、地元福岡で浪人生活です。
とはいえ、卒業してすぐに歓楽街の中州でバーテンダーとしてバイトを始め
ました(おい)
店長から夜のお仕事の素質を見込まれた・・・
のかどうかはわかりませんが、
「真剣にこの道に入らないか?」
と誘われるも、心を鬼にして言いました。
「いえ、僕受験生なんで・・・」
(心の中では「僕、ガンダムを作らないといけないんで・・・」)
3ヶ月程で泣く泣くバイトを切り上げ、お勉強モードに。
東京に行くことだけは先に決めていました。
福岡に飽き飽きしていたのです。
【大学、大学院】
1人暮らし♪
自由気ままに遊びすぎました。
自由になる時間がたくさんあるこの時期に、
人生のことや自分の本当にやりたいこと、
使命みたいなことをきちんと考えなかったことを、本当に後悔しています。
過ぎたことですが・・・
大学1のときは一生懸命バイトして、新しいバイクを購入。
学生というよりは完全に労働者でした。
大学2年と3年の夏はそれそれ1ヶ月間にわたり、
北海道をテント生活しながらツーリングして回りました。
最高に楽しく、最高の思い出です!
たしか4年生のときに、大型二輪免許(限定解除)に合格しました♪
当時、とても難しい試験だったので、これは嬉しかったです!
ガンダムを作るのが目的で進路を決めていたので、
迷うことなくロボット工学の研究室に入りました。
ガンダムを作れるほど頭よくないと悟ったのもこの頃です。
理系は大学院に行かないと・・・みたいな風潮があったので、
とりあえず勉強はして大学院へ。
要領がよかったのか、成績は良かったので、
特に真剣に考えることもなく大手電機メーカーの推薦を獲得。
就職氷河期と言われていたにも関わらず、特に労せず就職先が決まりました。
【サラリーマン生活】
大手電機メーカーに就職しました。
インターネットの通信機器を設計開発する部署で、
光ファイバー関係の機器開発を行っていました。
いやぁハードワークでしたね・・・^^;
この業界ではありがちなハナシですが、
毎日深夜に帰宅。帰ったら食事してお風呂入って寝るだけ。
関係者がたくさん集まってテストをする工程ともなると、
地方の工場に長期出張して数ヶ月間の缶詰生活。
深夜にビジネスホテルに入り、シャワーして寝るだけ。
一瞬で朝(笑)。
工場に出勤してデバッグ作業をまた深夜まで・・・
この繰り返し。
土曜の夕方まで仕事して家に帰宅。
月曜の朝にはまた新幹線で工場へ!
今考えても、なかなかのハードワークです。
当時はまだ若いということもあったせいか、
あれこれ考えずに一生懸命に仕事をしていましたし、
大勢で一丸となって朝から晩まで仕事をするというのは、
戦友的な仲間意識も芽生え、ある意味楽しい面もあったと思います。
それと、かなりお金は貯まりました!
(すぐに使ってしまうのですが・・・後述します。)
深夜までの残業代に加え、出張の期間はほとんどお金を使う機会がありませんから。
一方で、社内、関係会社を含めかなり大人数のプロジェクトで動いていたため、
基本的に自分のペースで仕事が出来ないというのは1つのストレスだったような気がします。
そんな仕事を5年程続けた頃です、
「なんか違うことやりたいな(・ ・)ノ」
という思いが湧き出てきました。
幼い頃から母親に
「あなたは飽きっぽい性格だから器用貧乏にならないように気をつけなさい」
としばしば言われていたことを思い出します。
母親はさすがに良く解っていたようです。
小学生に対して、そんな難しくて夢もないことを言わなくなって・・・
と思いますが、
『超安定志向』が染み付いた親からの、とても愛のある、
息子を心配しての言葉だったのだと、今は思います。
(あまり忠告を活かせてませんが・・・)
で、私がいた会社では社内公募制度というのがありまして、
まぁ言ってみれば「社内で転職」するというようなものです。
これに応募して合格!システムエンジニア部門に移動することになりました!
一緒に仕事をしていた方々に移動の事を告げるのは本当に辛かったです。
出て行く人間に、みんな温かい言葉をかけてくれましたし、
出張中なんかは何度も送別会をしてくれました(笑)
今思い出しても、ちょっとジーンときます(; ;)ノ
ま、そんなこんなで、新しい職場へと移動していきました。
夢と希望を胸に秘めて!
引越しも伴っていたので、まさに新たなスタート!という感じでした。
で、システムエンジニアとしての新たな業務を開始しました。
最初の頃は慣れないことも多く、勉強することもたくさんありましたので、
毎日必死で頑張っていましたが、少し慣れてきた頃に感じました。
いやぁハードワークだな・・・^^; (笑)
というのも、中央官庁の常駐SEという大役に抜擢(たぶん)されてしまい、
朝から夜中まで、官庁のSE部屋なるところに缶詰になることに。
(どこかで聞いたような・・・)
朝早く官庁に出勤し、深夜までSEとして業務。
帰ったらお風呂入って寝るだけ。この繰り返し。
(せっかく移動先の事業所の近くに引っ越したのに・・・)
なかなかハードで、緊張感のあるお仕事でしたが、
お客様やSEの仲間にも恵まれ、家族のような雰囲気での仕事は、
楽しいこともたくさんありました。
このような仕事を2年程続けた頃、やって来ました・・・!
例のヤツです・・・
「なんか違うことやりたいな(・ ・)ノ」
転職年齢としては一般的にギリと言われる頃であったこともあり、
今度は違う会社に行ってみようと思いました。
まぁ経歴が悪くなかったということもあるのか、
いくつかの会社から割りと早く良いお返事を頂けました。
私にSEの仕事を教え、育ててくれた先輩や同僚と離れることは、
すごーく辛かったです。
そして、またしても、みんな温かい言葉をかけてくれました。
もともと熱い先輩ではあったのですが、
退職前に最後に二人で飲みに行ったとき、先輩が泣いてくれました。
それを見て、あまりに嬉しくて、自分も泣いたのを覚えています(*^_^*)
本当に、自分はいつも、すばらしい人達に出会い、囲まれ、
助けられてきたのだと、つくづく思います。
そして都銀系シンクタンクに研究職で入社。
現在はシステムコンサルタントとして、
様々なお客様へのシステムの提案や、
各種研究機関の研究活動のお手伝い等をしています。
メーカー勤務時代と比べると、割と裁量が利くというか、
自分のペースで仕事が出来ることが増えたので、これは良いことなのですが・・・
やっぱり忙しいサラリーマンであることは変わらないですね(- -)ノ
【浪費の時代】
SEとしての仕事を始めて、1年程経った頃からだと思いますが、
自分の中でなんだかモヤモヤする気持ちがありました。
仕事は一所懸命やっている。いや、むしろ働きすぎなくらいだ。
なのに、お金があまりないのです。
労働基準法?何それ?といわんばかりに残業当たり前の生活でしたので、
お給料はそれなりにもらっていたはずです。
でも、いつもお金が足りない。
車を2台所有して、1台は趣味の車でした。
サーキットを走るための改造や整備にたくさんお金を使っていました。
海外旅行に行ったり、美味しいフレンチレストランに行ったり、
お芝居をたくさん見たりしていました。
はい。稼いだ分、きっちり使っていたのです(- -)ノ
少ない休日を思いっきり楽しむことに、
人生の意味を求めようとしていたのかもしれません。
欲望は尽きないため、働いても、働いても、お金が足りないのです。
愚かなことに、当時は単純にこう思っていました。
「こんなに働いているのに、お金が足りないな・・・」
【父さんとの出会い】
転職して、新しい仕事に慣れるために、また一生懸命仕事をしていましたが、
モヤモヤとした気持ちも、なんとなく続いていました。
また、30歳を過ぎており、年を経たという要因もあったかと思いますが、
その頃、新たにこんな気持ちを持つようになっていたのです。
「この先ずっと、こうやって朝から晩まで、会社に縛られたままなのかな・・・」
そんな時に、出会ったのです。
人生を変える一冊の本に・・・
詳しくはウェブへ!
ではなくて、こちらの記事へ!
【お礼】
長文を最後までお読み頂き、本当にありがとうございます。
こうやって自分の半生を振り返ってみて、率直に思うことは、
「なんだか落ち着きのないヤツだなぁ」
ということです(笑)
まぁ、落ち着かないことに拍車をかける出来事は他に多々あるのですが、
プロフィールで書くようなことでもないので・・・
書いていないことはたくさんありますが、書いていることは真実(笑)です。
(女の子・・・のくだりは、思い込みの可能性大ですが・・・w)
ただ、
「こいつ、悪い奴ではなさそうだな・・・」
ということを、少しでも感じてもらえれば幸いです。
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